1333年、鎌倉幕府が滅亡する。足利尊氏(あしかがたかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)の活躍。
【暗記用俳句】 ♪鎌倉の 一味さんざん(1333) 滅亡す
鎌倉幕府滅亡の経緯
鎌倉時代(かまくらじだい)末期、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は朝廷(ちょうてい)の権力(けんりょく)を回復し、天皇親政(てんのうしんせい)を目指していた。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉幕府の衰退(すいたい)を見逃さず、倒幕計画(とうばくけいかく)を実行するも失敗してしまう。
しかしその後、楠木正成(くすのきまさしげ)や新田義貞(にったよしさだ)、足利高氏(あしかがたかうじ、のちの尊氏)ら武士団の協力を得て、ついに鎌倉幕府(かまくらばくふ)を滅亡(めつぼう)させた。
この頃、朝廷(ちょうてい)は持明院統(じみょういんとう)と大覚寺統(だいかくじとう)に分裂(ぶんれつ)し、幕府の調停(ちょうてい)で交互に天皇を即位(そくい)させていた。
1318年に即位(そくい)した大覚寺統(だいかくじとう)の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、幕府の干渉(かんしょう)を嫌い、2度も倒幕計画(とうばくけいかく)を立てたが失敗し、隠岐(おき)へ流されてしまう。
しかし、1333年、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は隠岐(おき)を脱出して倒幕の綸旨(りんじ)を出し、諸国に挙兵(きょへい)を呼びかけた。
これに応じたのが源氏の嫡流(ちゃくりゅう)・源義国(みなもとのよしくに)から分かれた足利高氏(あしかがたかうじ)と新田義貞(にったよしさだ)。尊氏(たかうじ)は、幕府軍として京都に向かう途中に天皇方に寝返り、六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略(こうりゃく)する。
他方、上野で兵を挙げた義貞(よしさだ)は、鎌倉を攻め落とし、ついに鎌倉幕府は滅亡(めつぼう)した。